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お茶の水の「オグリン」

2007年3月27日

インターネットで「古地図・東京めぐり(http://map.yahoo.co.jp/kochizu)」を見ていますと、明大通りを挟んで明治大学のお向かい…現在の日大歯学部辺りに「小栗又一邸」があったようです。しかし、現況にそのことを偲ばせるものは何もありません。

唐突に私事になりますが、私は横須賀生まれでして、「小栗又一」…というよりは「小栗上野介(1827~1868)」には若干の思い入れがあります。
横須賀といえば「基地の町」であり、戦前は「軍港都市」であった訳ですが、それもこれも小栗上野介が中心となって徳川幕府による「横須賀製鉄所(明治維新後は横須賀海軍工廠)」を建設したことから始まっています。江戸時代、日本中のどこであれ、海辺であれば見ることのできた鄙びた漁村の一つであった「横須賀村」の歴史は小栗上野介の海軍建設計画によって劇的に変更されたといえます。

慶応4年(1868)事やぶれた小栗上野介は、小栗家の領地である上野国権田村への土着願書を幕府に提出した後、江戸を去り家族家臣と共に権田村に移り住みます。しかしその3ヶ月後、突然、明治政府の役人により捕縛され、養子の又一(小栗家の男子は代々「又一」を幼名とする)や家臣共々、斬首されます。

最後の将軍~徳川慶喜のスタッフとして勝海舟(1823~1899)ら恭順派に抗して、小栗上野介は主戦論を唱えたとされています。しかし、歴史は常に勝者によって書かれますから、鵜呑みにはできません。勝海舟は維新後、参議・海軍卿・枢密顧問官となり伯爵に叙せられています。幕府内の親仏派として小栗と共に横須賀製鉄所建設を推進した栗本鋤雲(1822~1897)は新政府に仕える事を潔しとはせず在野を貫きましたが、報知新聞主筆として言論界で活躍しています。「小栗上野介抹殺」は革命期にありがちな暗い謎のひとつといえましょう。

小栗上野介の「見果てぬ夢」であった「横須賀製鉄所」の施設の一部は、現存します。3基のドライドックは大日本帝国海軍の工廠施設として働いた後、現在は在日米軍第7艦隊の艦船修理部施設として現役で稼働しています。勿論、米軍基地内ですから立入禁止になっていますが、海を隔てた「ヴェルニー公園(この名前は小栗上野介が招聘したフランス海軍技師F.L.Vernyに由来します)」から眺めることはできます。

余談ですが、横須賀市は1981年、当時の群馬県倉渕村と友好都市提携をし、同地に横須賀市民休養施設「はまゆう山荘」をつくりましたが、倉渕村はかつての「小栗家の領地である上野国権田村」です。また、地域振興策(「黒船祭」・「海軍カレー」…いろんな事をする町です)の一つとして、毎年「横須賀開国祭」を開催していますが、祭のキャラクターである「ペリリンとオグリン」をデザインした漫画家小栗かずまた(本名:小栗又一朗)は小栗上野介の玄孫だそうです。